アトランタオリンピック


トップ  戻る




 長く熱い夜

 シドニーの女子マラソン代表が決まった。マラソン・・・ そう、私はあの夜を忘れない。あの夜のことなら、いまでも鮮明に思い出せる。

 その夜、熱海では花火大会が行われていた。仲間の多くは、それが当然であるかのように花火を見に出かけていた。私を含め、つるやホテルに残った数人には、そこに残らなければならない確かな理由があった。我々は、毎年繰り返されるお祭りよりも、アスリートたちの躍動するパッションに、とうの昔から心を奪われてしまっていた。
 冷えたビールを手に、MAXの右から二番目がリナかレイナかで激論を闘わせたのは、あくまでセミ・ファイナルにすぎない。メイン・イベントまでのほんの時間つぶしだ。そして、その時は来た。待っていたのはアトランタ・オリンピック女子マラソン、スタートの号砲である。

 スタートから飛び出したドイツのピッピヒが、やがて集団に吸収される。しばらく動きはないだろう。日本選手3人も順調に集団についている。まずは安心。
 安心して、今度はゴールデン・ハーフのエバで盛り上がろうとしたら、周り全員の若者たちに「知らない」と言われショックを受けて何分経っただろうか、ふと見ると、カメラは集団を捕らえている。エゴロワがいて、有森がいて、ドーレがいる。先頭集団であることに疑いはない。淡々と走っているようにこそ見えるが、集団の中では熾烈な駆け引きが行われているのだ。見ているだけで手に汗が滲んでくる。と、そのとき、声に聞き覚えのある女性ア
ナウンサーが水を差すようなことを言う。

 「ただいま2位集団を映しています。先頭はロバです。」

 "なにおぉ〜!"仲間の一人が思わず叫ぶ。無理もない、私だって耳を疑った。なんでロバなんだ、なぜロバがマラソンしてんだ! 全世界が注目する神聖なるオリンピックだぞ。日本国内の女子マラソンでこそ実況を聞いたことのある女性アナウンサーMは、オリンピックという大舞台でついに舞い上がってしまったのか? なるほど環境問題にうるさいアメリカのことだ、マラソンの先導にオートバイではなく、クリーン・エネルギーのロバを使っているのだろう。しかしそうだとしてもだっ、エゴロワや有森など世界のトップランナーを差し置いて、いくら先導がロバだからといってこともあろうに「先頭はロバ」はないだろう。言うにこと欠くにもほどがある。そんなギャグを言っている場合ではない。

 ところが、なのだ。その数分後、すっかり興冷めさせられた我々の目に、驚くべき映像が飛び込んできた。なんとそこではほんとうにロバが、ランニングウェアにゼッケンまでつけて、しかも二本足で走っているではないか!!!
 ロバはその後も快走(怪走?)を続け、エゴロワ,有森の猛追をものともせず、なんとそのまま1着でゴールインしてしまった。もちろん表彰台にも二本足で立ち、大観衆に笑顔で応えたのである。冗談だと思うなら、アトランタ・オリンピックの記録を調べてみるがいい。女子マラソンのゴールド・メダリストは、間違いなくロバと記されている。そしてこれが、ロバにとって初めてのオリンピック金メダルとなった。

 あの、長く熱い夜を忘れない。たとえシドニーがどれほど熱く盛り上がろうとも、あの、つるやホテルの夜は二度と繰り返されることはないのだから。なぜなら、何度注意されても明け方までドンチャン騒ぎをやめなかった我々は、とうとう出入禁止となり、二度とつるやホテルへは行けなくなってしまったロバ。



戻る